指摘を受ける→人の目を気にする思考→人にどう思われるかは自分の価値には関係ない(中心に戻る)

昨日、仕事で失敗しました。

失敗というか、私個人ならどうにかできると思ったけど、

チームの人は確実に安全に進めたいらしい。

安全ルートを取らないなんてこいつバカだ、

と思われたでしょう。

(でも、私なら絶対に問題なくできる。それどころかもっといい結果になるのに。という自信はある。笑

(やりようはいくらでもあるのに、多くの人は失敗を怖がって100%安全だと言われる道を好む。

非難がましく指摘を受けて、私は少しへこみました。

(非難がましく、というのは私の主観。現実に支配されてる証拠。

指摘を受けたメールに返信するのに、

一度書いた文章がなんだか気持ちがよくなくて

波動の調整をしてから書き直そう、と思いました。

何度か書き直しました。

私の気分がいいと思えるまで。

そして、これならOKと思える文章で返信しました。

それでも少しまだ気分が落ちていました。

少し人に指摘されたからって、

誰からも素晴らしいと認められる進め方ができなかったからって

それと私の価値とは全く関係がない。

そうか、今、

私は人にどう思われるかをすごく気にしていたな。

できる人と思われたい。

さすがrunさん、と言われたい。

そういう気持ちが心を占めていたな。

だから、落ち込んだんだ。

(それに、落ち込んだってそれでいい。

人にどう思われようと

私の価値には何の関係もない。

生きていたら誰でも失敗する。

やらない人にとやかく言われる筋合いはない。

・・・っと、これは相手への非難だな。これは違う。

チームの人を非難するという意味ではなくて、

やらないより、やった私はいいと思う。

やらないで失敗しないより、やって道を開いた私はそれでよい。

ーーー

私がカップを洗っていたら、

手が滑ってカップが割れてしまいました。

とても気に入っていたウェッジウッドのカップです。

ががーーん!!

それを見た子供たち

「物は落ちる、だよね、ママ^^!」

「物は壊れる!^^」

私は心が救われました。

お気に入りのカップが割れて、

一瞬自分のことを責めました。一瞬。

そうだ、物は落ちるし、物はいつかは壊れる。

責める必要は何もない。

当たり前のことが起こっただけなんだ。

自分が言ってほしいことを

子供たちにも、他の人たちにも、言っていきたいと思いました。

だってこんなにも救われるから。

子供たちは何かあると私に救われるでしょう。

(そうじゃないこともあるかもしれないけど、、

そうして過ごした子供たちは

学校で、保育園で、他のお友達にも同じように優しい考えを伝えられるでしょう。

物は壊れる。

物はなくなる。

生きていたら失敗したり間違えたりするのは当たり前。

これらはホッとする思考の一部です。

ほっとする思考を、

自分にも、子供にも、言い続けていこう。

意識が中心に戻った時、

今回指摘を受けて、失敗したと感じている自分や

人にすごいと思われたいと思っている自分や

気分が落ちている自分も確かに自分で実際そう感じているんだけど、

それらの現実世界を生きている自分を

ちょっと遠くから温かい目で見ている存在としての自分という感覚も同時にあって

現実世界の感覚(苦しい、恥ずかしい)を楽しんでいる感覚がありました。

これは、生きることで感じる様々な感情を楽しんでいる

ハイヤーセルフ?高次元の存在?宇宙?全体意識?別の領域?

の見方に他なりませんね。

恥ずかしいのに、面白がっている。

ふふふ、バカですね(笑)

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