世界=自分 なら、自分が世界からしてもらいたいことを、自分にしてあげる

世界=自分。自分=世界。

それなら、

自分がしてほしいことを、世界に対してしてあげる。

ということを2こ前の記事で書きました。(コチラ

世界=自分。自分=世界。

それなら、

自分が世界からしてもらいたいことを、

自分にしてあげる。

ということもできます。

そうすれば、世界もそのようになっていきます。

どういう扱いをされたいか、

それを自分にも、世界にも、自分からやる。

これ、能動的で私は好きです。

生活の中でたくさんできます。

さて、それに絡めてひとつ。

先日、うちの息子に

「おばあちゃん、本当は息子くんの面倒みたくないんだよ!」

と言ったおばあちゃんから(この件の記事はコレ

「ゴールデンウィーク、息子くんと娘ちゃんと遊べる日を教えてね~」

とメールが来ました。

私は、

「誰がかわいい我が子を連れて行きますか」

という気持ちでした。

だけど、ちょっと思いとどまりました。

どう対応しようか、考えました。

義母との関係、というよりは

自分の世界としてどう対応しようか、という感じで。

義母は、いつかの私です。

世界=自分。

つまり、義母=自分です。

取り返しのつかない、信頼を失うようなことを言ってしまった自分。

それでも、遊びに来ない?とメールした自分。

許してほしいと思っている自分。

それでも謝れない自分。

・・・思い当たることがあります。

私は友人にひどいことをしてしまったことが、何度もあります。

こんなことをしてしまう自分が、本当に嫌だ、と思っていました。

もう何年も前のことですが、

それでもちょくちょく思い出して自己嫌悪を感じていました。

本当に、義母=自分だ。。

私は、世界からどうしてほしいのか?

それは、

「許してほしい」だ。

そして、そんなことをしてしまった自分を、「許す」んだ。

自己嫌悪している自分を、「許す」んだ。

義母を、許す。

まだちょっとわだかまりを感じる部分もあるけど、それでいい。

わだかまりを感じている自分も、許す。それでいい。

と、そんなことを考えていたら、

義母へのわだかまりも、ちょっと小さくなった気がします。

「かわいい我が子を連れて行くものか」

と思っていた気持ちも、かなり小さくなっています。

それでもちょっとはまだ残っている。

それでいい。

以前よりは気持ちよく義実家を訪問することができそうです。

まだ返信はしていません。

夫とも、どうするか話し合っていません。

自分で、どうしたいかもまだ定まっていません。

きっといい案が出てきます。

急いで返事する必要もないのでゆっくり考えます。

こうして考えてみると、

よくよく「世界=自分」なんだなぁと気付かされます。

願いが叶う、なんてものじゃない。

全て、叶っている。

世界=自分。

「叶っている」とか「願望」とかの単語はちょっと違和感。

感じていることが、そのまま世界になっている。

「叶っている」というのは「願望」に対する言葉。

願望以外のことも全て、

その通り世界に反映されて作り出されているから、違和感。

確かに、

狙ったことを、狙い通りに出現させたいものね。

「引き寄せる」というと、なんだか能動的な感じもするし。

そうか、

この、世界の作られ方を分かった上で、

能動的に、狙ったことを出現させることを「引き寄せ」というのか。

って今更ですね^^;

ある狙ったことだけを引き寄せるんじゃないんだなぁ、

ってことが言いたかったんです。

狙っていなくても引き寄せている。出現させている。

毎日、どんなことが目の前で起きていくのか、

自分がどう思うのか、

他の人がどんなことを言うのか、するのか、

映画を見ているようですごく面白いです。

そしてその映画の続きを、作る側にまわっている感じ。

続きはこんな内容がいいな。

こういうのがおもしろそう。

って、世界や自分に関与していく。望む方へ。

今目の前で起きているのは、すでに撮影済みの映画。

映画を作る側に立ったのは最近のことなので、

どのあたりから

自分で意識して作った内容が出てくるのか楽しみです^^

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