嫌なことに出会った時のこと

先日書いたこの記事(現実にも、過去にも踊らされない

嫌なことに出会った時のことを

もっと丁寧に書けばよかったな、と思ったので書きます。

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ちょっと「ん?(-“-)」って思う出来事もあったりしました。

そういう時は

そう思っている・その現実を目の当たりにしている”自分”を

観察している存在を思い出してみると、

「あーこれは”自分”を通して楽しんでいるだけだな」

「この現実は過去の産物だった。ただの過去の自分の投影。」

と、その現実にあまり踊らされないようになってきました。

ーーー

ここのところです。

「現実を目の当たりにしている”自分”を

観察している存在を思い出してみる」

というのは、

今現実を目の前にしている”自分”を客観的に見てみるって感じです。

そうすると、全ての事柄から意味が抜け落ちます。

「嫌だ」という意味がなくなるので、

「それ、本当に嫌な出来事なのかな?」

って思うんです。

全ての出来事から意味が抜け落ちるというのは、

先入観がなくなる、とか

制限がなくなる、とか

思い込みがなくなる、等とも言えます。

先入観・制限・思い込み等は

自分が勝手にその物事に意味を与えているから出てくるものです。

物事に意味が付いていない状態に気が付く。

だから、フラットに物事を見ることができる。

「どうして嫌だと思ったんだろう?」

と立ち止まって考えることができる。

そうすると、

自分が持っていた先入観とか、

自分にかけていた制限とか、

縛られていた思い込みとかに気付くことができる。

それらは、気付くだけでも大きな変化があります。

私の場合は、気付くとなんだかバカバカしくなってきたりします。

なんで「こうじゃなくちゃいけない!!」

って思ってたんだろう(笑)

って。

「こうじゃなくちゃいけない」

というのは、なんだか力が入っています。

そういった力が抜ける感じです。

気楽になります。

私はよく子供たちの寝かしつけで悩んでいます。

でも、どうして早く寝てほしいんだろう?

それに、よくよく考えてみれば、

子供たちが寝付くまで私が起きて付き合う必要もないよね。

(階段などの安全対策済)

子供達も、疲れてるし、そのうち寝るでしょう。

一人でも寝れるという練習だね。

私が嫌な気持ちになってまで付き合う必要はない。

ってこんな感じ。

また、先日ショッピングモールに出かけた時のこと。

娘がおやつを食べたがるので、

近くのベンチに座らせて食べさせようと思いました。

でも、どこも人が座っていて、

3、4人掛けのベンチに女性が1人で端っこに座っていて、

ベンチの真ん中に女性のバッグが乗せてあるベンチがあったので

反対側の端っこに娘を座らせて

私はしゃがんでおやつを食べさせていたら、

あからさまに嫌そうな顔をして、ガサ!!っと

バッグを膝の上に乗せてくれました。

その現実を見て

私は嫌な気持ちになりました。

だけど、これはただの現実だ(って言い方おかしいですねw)

っていうことを思い出しました。

どうして私は嫌な気持ちになったんだろう。

小さな子供を見て、笑いかけてくれる人が多いけど、

それが当たり前になっていたな。

別に、笑いかけなくてもいいじゃない。

人それぞれ、どんな気持ちでいようと自由じゃん。

思い返せば私は、

人ににこにこ愛想よくしていようと思っていたけど、

それが無理な時は無理しなくていいんだな。

それに、

過去に私はこの女性のように

嫌な気持ちで行動したことがあっただろう。

思い返してみて、具体的なことは思い出せないけど、

あっただろうな、そういうこと。

だから、今見たんだな。

こんな風に考えていくうちに、

だんだん力が抜けてきた感じになってきました。

エイブラハム的に言うと

「ほっとする方向」に進めました。

最近あった嫌なことって、

このくらいしかない(笑)

本当に幸せに生きています。

自分に、家族に、世界の全てに、

読んでくれたあなたに、感謝の気持ちです。

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